【第一話:石山の発祥】

 現在の札幌市南区石山地区は明治5年(1872)から札幌軟石の採掘場として、早くから軟石採掘に関係する入植者が住むようになりましたが、この頃は平岸村に位置していました。


軟石造りの「ぽすとかん」

 明治4年(1871)に平岸村には既に65戸の住居に203人が住んでいたようです。これは東本願寺二一世法王大谷光勝厳如上人が「札幌」から「有珠」までの26里(約104km)ある新道開削を、明治2年(1869)六月から始め、この「東本願寺道路(現在の国道230号線)」のルートが、平岸村から定山渓を経て、中山峠を越して有珠郡西長流村まで明治4年(1871年)四月に開通したことで石山の歴史が始まります。

 それ以前の約5千年前にはまだ石狩平野が海底であり、そこに注ぐ豊平川(アイヌ語ではサッポロペッ)の沿岸であった八垂別(現在の藻岩地区)や天神山(平岸)それに石山地区(石山神社裏周辺)に縄文人
(※)が住んでいたようです。

 この石山地区に入植者が住むようになったのは、明治5年(1872)8月頃で、札幌軟石の採掘準備のための小屋程度のものでした。開拓使事業報告書には『坪数一三五坪・経費二三九円八四銭・札幌郡平岸村穴の沢に棟数五・茅小屋を新築』と記載されています。これは現在の札幌市南区藻南地区の藻南橋附近で、札幌軟石の採掘が最も早くから採掘された場所です。


明治初期における入植当時の生活

 この場所を中心に現在の石山が形成されていきますが、しばらくの間「石山」の地名は「穴の沢」であり、当時の行政地名も「穴の沢」と名付けられています。「穴の沢」が「石山」の地名として定着してきたのは、明治35年(1902)頃で「石山番外地」として記録に掲示されています。但し、「石山」の地名自体は明治14年(1881)頃には石材の採掘場として、軟石採掘・硬石採掘地域を合わせて「石山」と呼んでいた記録も開拓使事業報告書にあります。現在の硬石山と豊平川に挟まれた場所を「石山」とし、藻南橋辺りを「穴の沢」としている明治29年(1896)の古地図もあります。

 こうして「石山」の地名が定着し、札幌軟石により発展してきた石山ですが、「札幌軟石物語」は次回以降、この札幌軟石が形成されていった歴史から現在までを順を追って連載して紹介致します。

※石山神社裏では円筒土器・縄文土器・石斧などが出土し、埋蔵物文化センター(中央図書館内)にM-66として展示されています。

参考文献:「石山百年の歩み」他


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