【第十九話:札幌軟石の運搬A】

 明治9年(1876)には山鼻村に屯田兵が入植し、農閑期には馬車で札幌軟石の運搬に携わることもあり、軟石の生産が増えると共に運搬などの仕事に従事する人々も多くなってきました。
 軟石運搬で一番の難所は現在の石山陸橋がある付近の丘で、この高さまで採掘現場から軟石を運搬することでした。(定山渓鉄道に変わってからも、重い貨車を何台も連ねたときは石山小学校辺りまで一旦下がり勢いをつけて登っていました。)
 当時はこの丘まで運び、一休みをしてから真駒内方面に向かいました。その頃はここに団子屋さんなどの出店があって賑わっていたようです。


石山陸橋より石山市街地を望む

 この場所には現在「望豊台碑」が設置されていますが、これは軟石運搬で一休みしながら豊平川を望んだことから名づけられたものです。「望豊橋(石山陸橋下の一方通行アンダーパスに架かる橋)」の名称由来は、この「望豊台」から採っています。
 馬車での帰りは荷台に寝ていれば馬が勝手に帰ってきたこともあったようです。

 馬車鉄道が営業するようになるまでの34年間は、真駒内から平岸を通り豊平橋を渡るルートと真駒内から上山鼻渡船場を経て、市内へ運搬する二つのルートがありました。
 この間、馬の背に乗せて運搬する方法から、明治30年頃には鉄輪の馬車となり、月寒歩兵台二五連隊の兵舎建築に軟石が大量に使用されることとなり鉄輪の馬車が活躍しました。
 この運搬には石山はもとより川沿・平岸・山鼻の農家(屯田兵を含む)で馬をもっているものの殆どが副業としてこれに携わりました。
 その後、ゴムタイヤの馬車(ほどう車)に変わり、ずいぶんと運搬が楽になりました。しかし、積雪のある冬期間は馬橇
(ばそり)による運搬が便利で、ゴムタイヤの馬車になってからも冬期間はもっぱら馬橇を利用しました。


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