【第七話:明治ちょっと前】

 明確ではありませんが、石山付近はアイヌの人たちから「ウコッ シリ ナイ」と呼ばれていたようです。意味は「山と川が重なっている場所」とでも訳すのでしょうか。
 その後、幕府の蝦夷地御用雇に指名された松浦武四郎が、北海道の地形や川筋の調査で「後方羊蹄
(シリヘシ)日誌(東西蝦夷山川地理取調記行)」『ヲコシナイで、今夜は木陰もない野原に野宿(現代語訳)』と安政5年(1858年)2月12日(旧暦)に書いています。
 この「ヲコシナイ」が現在の「穴の川」
で、後日に武四郎が書いた地図(全て山と川の呼び名の地図)にも「ヲコシ子(ネ)」と記されています。この日誌のとおりだとすると、武四郎は石山で野宿したことになります。また、石山と藤野の境界に流れる「ヲカバルシ川」は当時から同じ呼び名で、武四郎の地図には「ヲカハルシ」と記されています。


松浦武四郎翁

 石山にアイヌの集落があったという記録はありませんが、「石山百年の歩み」によりますと、虻田方面から移動してきたと思われるアイヌ人が天神山(平岸)や八垂別(藻岩)に住みつき、狩猟をしていたようなので、山々に囲まれ比較的環境が良かったのであろう石山周辺にも、狩猟やアイヌの人々が着物にしていた「アッシ」の材料となる「オヒョウ」の木の川を求めて来ていたのではないかと想像できます。

 武四郎日誌には2月13日に足が凍傷寸前で歩くことができなくなっていたところ、豊平川と真駒内川の合流付近にアイヌの集落があり、ここの顔見知りだったアイヌの人たちに助けられたと記されています。
 冬の雪中を当時の貧弱な装備やわずかの携行食糧で歩き、何日も野宿して移動していく様は、現代の私たちには想像もつきません。武四郎もアイヌの人たちのおかげで調査が出来たのでしょう。
 この頃、軟石をアイヌの人々が利用していた記録も痕跡もありませんが、豊平川(サッポロペッ)や山肌に露出していた軟石を見て、知っていたことは推測できます。

※諸説あり「ニセイケショマップ」が「穴の川」の説もあるが、山川地理調査である武四郎地図では、この川は「ヲカハルシ」より簾舞寄りとなっていて、武四郎日誌やこの地図の周辺の河川名から判断すると「ヲコシネ」が「穴の川」に該当し、ここが現在の石山の場所であると思われる。


武四郎作成の山川地理取調図


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