【第九話:原野に響く石切る音】

 明治7年(1874)になると、札幌の大川某という人が開拓使に軟石採掘の鉱区払い下げを願い出て受理され、次いで札幌の工藤啓次郎が、この採掘権を大川某から譲り受け、森田粂次郎を支配人とし、明治8年(1875)から本格的な軟石採掘が始まりました。
 開拓使事業報告書によりますと、この年 軟石採掘量は1,985切(※)を採掘し、499円42銭3厘であったと記されています。
 翌年には1,205切と減少しましたが、明治10年(1877)になると4,314切の採掘があり、採掘開始当時の倍以上切出しがありました。

(「切」は「さい」と読みます)




軟石採掘用の道具(手掘り時代)

 本格的に軟石採掘が始まると、多い時には300人を超す石工職人が本州から集まって来たようです。
 しかし、これらの石工職人の多くは家族を伴った者は少なく、永くは石山に留まらず北海道を流転する者も多かったようです。なぜならば、軟石の採掘は雪の無い期間に限られていて、冬期の生活は厳しく、この頃の北海道は開拓事業が盛んになり始めた時期でもあり、ニシン場や炭鉱、それに木材伐採業など働き口はいくらでもあり、豊な暮らしを夢見て去って行きました。

 そんな中で採掘当初から石山に定住し、石山開基の基をなした人物がいました。
 阿部九郎右衛門・倉島富次郎・寺田覚太郎の3人で、その後定住する職人が次第に増えてきましたが、これらの人々は仙台や福井、それに栃木県鹿沼の大谷石工職人など本職の石工職人が多く入植しました。
 この頃の採掘場親方は石山に住んではおらず、鉱区ごとに現場を任された石工職人が採掘していました。
 前出の大岡助右衛門の鉱区もあり、そこには西村健蔵・荒井伊右衛門・森与吉など現在の石山や近郊に在住の先代も入植しています。



軟石採掘初期の頃の石工職人と親方

 その他、岩田弥兵衛・兵庫文吉・後藤与市・?島(とどしま)金次郎らの石材関係者も入植し、それに現在の札幌市交通局の基を創った助川貞次郎が後に「札幌石材株式会社」を設立し、軟石運搬にあたりました。

※1切とは切出しの単位で、1尺立法(約30p立法)重さは平均して35s
 建物には通常「尺角」と呼ばれる大きさを利用し、3切(約30×30×90p)の寸法となる。
 他に「五印」や「八寸二」もある。


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