【第十一話:札幌軟石の夜明け】

 札幌軟石は、当初、一部の開拓使建物や民家の煙突に利用されてはいましたが、需要はそれほどありませんでした。
 開拓使から柾葺屋根の本建築の煙突に補助金制度で推奨されたとは言え、当時の札幌軟石の価格は1切が20銭から23銭で、入植したばかりの人たちには生活することが精一杯で、必要量の軟石を買い揃えるような金額ではなかったようです。(当時の相場で白米一升が17銭〜18銭)
 従って、防火のために推奨された札幌軟石でしたが、使用されるのはごくわずかで、依然として火災が多発していました。
 そんな中で、明治12年(1879)1月17日に開拓使本庁が火災に遭い焼失してしましました。



明治6年 開拓使本庁上棟

 僅か5年で開拓使の象徴とも言える本庁焼失は、黒田開拓使長官(明治7年に長官に昇進)にとってショックは大きく、この年から石造りの住宅建築を行うものに対し建築費貸与制度を定め、なお一層軟石使用を推奨したことにより明治14年(1881)には約5万7千個が切出され、札幌軟石の夜明けとなりました。

 札幌軟石採掘は大正から昭和にかけて全盛期となり、手掘りで昭和4年には24万個切出されています。この当時になると石材店も百を超え、石工職人も300人ほどいました。
 腹掛け半纏に草履姿で、頭にはねじり鉢巻きを枚た石工職人が石山のあちこちの切羽で働き、石山の町(当時の中心地は現在の啓北商業高校辺り)には一杯飲み屋が建ち並び、仕事帰りの石工職人が寄り集まっていたようです。女性も石くずを運ぶ仕事で稼いでいました。



大正元年の石山市街を望む

 話は変わりますが、現在札幌市内の小学校運動会は5月末の日曜日に開催される学校が多いのですが、石山小学校は昔から毎年6月1日と決められていました。
 この日は石工職人の給金支払日で休日であったから、石山に住む人々の殆どが札幌軟石に関係していたため小学校の運動会もこの日に合わせて行われていました。

参考文献:石山百年の歩み・開拓使事業報告書
写真提供:北大附属図書館


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