【第二十三話:札幌軟石の運搬E】

 大正元年(1912)になると札幌停車場〜中島遊園地まで延長し、札幌停車場〜苗穂停車場・南1条東2丁目〜西15丁目と次々に延長されていきました。
 

大正元年の札幌停車場通りの馬車軌道 苗穂まで開通する

 客車も20人乗りが導入され、18台が常備されていたようです。
 最盛期の路線延長は、市内線が約9qで、石山線が約11qありました。現在のサンセレクトの位置に、馬鉄事務所と待合所もできました。

 旅客運賃も改訂され、道庁に申請した料金は5銭均一でしたが、当時の『東京電報』によると竣成の暁には4銭均一にて客を運搬するが如く報じられています。しかし、最終的には1区間5銭で、石山までは4区間に分かれていて札幌〜石山間は20銭かかったようです。当時白米一升が17,8銭であったから、決して安い運賃ではなかったようです。

 ちなみに現在のルートでは石山2条4丁目から札幌駅間の定鉄バス運賃は大人が320円であり、ラーメン一杯も食べられません。

 開通当時は便利になったと喜ばれた馬鉄も、東京・大阪などの大都市は電化による路面電車に替わり、大正2年(1913)には函館も路面電車となりました。

 大正7年(1918)に開道50年記念大博覧会開催にともない、道庁長官は博覧会会場である札幌が馬鉄では文化都市の名折れであると考え、電車への転換を画策し、市内線は電化のため廃止され、同年8月には路面電車が走る文化都市へと変わっていきました。

 市内線廃止時には、石山線の馬鉄軌道は残りましたが、石山地区に計画された豊羽鉱山選鉱所からの鉱石運搬と定山渓温泉への旅客の足を確保するために、大正6年(1917)から工事が行われていた定山渓鉄道が大正7年(1918)10月に開通しており、これに伴い廃止されました。
 馬鉄軌道が廃止され、軌道跡は八垂別の硬石運搬の馬車が主に走る道路にもどりました。
 しかし、軌道跡が国道230号となっても、当時の名残で『石山通り』と今でも呼ばれています。

写真提供:北大図書館


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